インタビュー
掲載日:2022年7月21日
今回のインタビューは、納棺師の齋藤敦子さんと志水千恵子さん、齋藤佳代子さん。
以前インタビューをさせていただいた株式会社アートエンディングの西本様から「ご遺体が輝いて見える納棺師さん」とご紹介いただき、ぜひお話を伺いたい!とインタビューのご機会をいただきました。
親子2代で納棺師を務めておられる3名に、それぞれ納棺師となったきっかけや、その後のキャリアなど、興味深いお話を伺います。
まずは、敦子さんと千恵子さんが納棺のお仕事を始められた経緯から伺えますか。
敦子:4人目を出産後に仕事を探し始めて、たまたま納棺師の求人を目にしたことがきっかけでした。
敦子:まだ子供が小さかったので、人に喜ばれるお仕事というだけでなく、求人情報に記載されていた「空いた時間で働ける」の一文で応募を決めました。
千恵子:私も母と同じタイミングで、一緒に面接に行きました。
当時、私は学生でアルバイトを探していたのですが、ちょうど駅に掲示されていた納棺師の求人広告を見つけて、母に「一緒に面接行ってみない?」と声をかけたんです。
敦子:二人とも、当時は納棺師になりたいと考えていたわけではなく、お仕事の内容などは何も知らずに面接に行きました。
皆さんのように納棺師の映画を観て感銘を受けたとか、家族がお世話になって感動的だったからとか、そういった理由は全くありませんでした。
子供が小さいと制約が多く、たくさん働くこと自体が難しいので、空いている時間を登録しておけばその時間にお仕事が入る、という納棺師の働き方が、当時の私には一番の魅力でした。
そうだったんですね。
千恵子さんはどういった理由で納棺師のアルバイトを選ばれたのでしょうか。
千恵子:私は興味を抱くものが母と似ているんです。当時はまだ学生でしたから、家庭との両立を考える必要もなく、ただ純粋に好奇心から選びました。
ではその時に応募した会社で、納棺師としてのキャリアをお二人同時にスタートされたんですね。
敦子:そうです。
自分の親が納棺師だったり、葬儀社で働いていたから、という理由でこの業界に入ってくる方は多いと思いますが、私と長女(千恵子)のキャリアは全く同じなんです。
当時は、長年の子育ての後で、働くこと自体が久しぶりでしたから、覚えることがたくさんあって大変でした。現場には先輩と二人で向かうのですが、先輩ごとに進め方が違ったり、大切にされていることが違っていたため、それぞれに合わせて作業をするのにかなり苦労した記憶があります。
今ならスマートフォンで録音したりできますが、当時はそういった事も気軽にはできなかったので、とにかくなんでもメモを取っていました。
千恵子:メモを取るのも、現場に出ているとその場で取るのはなかなか難しいんです。
ですから、納棺が終わってから気づいたことをメモして、家に帰ってから反省会。次の仕事に行く前に「今日はこんな感じでやろう」とイメージトレーニングをしていました。
千恵子さんは、納棺師を始められて苦労したことや、特に印象に残っていることはありますか。
千恵子:やはり初めての現場は、強く印象に残っていますね。
実は納棺師として働き始めたころ、自分が覚えている限りでは、人の死に向き合った経験がありませんでした。
そんな状況の中で行った初めての現場では、目の前に安置されているご遺体を見てとてもドキドキしたことを覚えています。ご遺体に触れるのももちろん初めてでしたから「自分はこれからどうなっちゃうんだろう?」と心配になったくらいです。
ただ実際に納棺が始まると、不思議と何の抵抗感もなく対応することができました。
その時に初めて「私は納棺師に向いているんだな」と思いました。
面接の時にも「納棺師には向き不向きがあるけど、それは実際にやってみないと分からない」と言われていたので、その点については安心しました。
私の同期は六人ほどいましたが、ご遺体に近寄れない人や「故人様が夢に出てきて怖いので」といった理由で辞めてしまう人もいました。
敦子:幸い、私たちは二人ともご遺体に抵抗がなかったので、納棺師として働くうえでの第一段階は問題なくクリアできました。
敦子:最初の会社には1年ほど在籍していたのですが、働き始めてしばらくすると、技術的に行き詰ってしまいました。
「こんな時どうしたらいいんだろう?」と疑問に感じた事を先輩に聞いても「分からない」とおっしゃることが増えてきていたので、もっと勉強したいと思い、ご遺体のメイクなどを教えてくれるスクールに通いました。
半年ほど通ったスクールでは、基礎的な知識なども改めて身に着けることができました。
ただ、勉強期間が終わってみると全然物足りなかったんです。そんな時にスクールで出会った人から「横浜で納棺師の求人が出ているよ」と教えてもらいました。
しかも、その会社では警察案件も多く取り扱っているというお話だったので、これはもっと勉強ができるぞ、と思い転職することを決めました。
ご自宅は埼玉県ですよね。横浜だとすごく遠いですね。
敦子:そうなんです。何度か鎌倉まで行ったこともありました。
スーツで江ノ電に乗って、現場に向かったこともありましたね。観光客がいっぱい乗っている江ノ電の中で、一人だけスーツを着ていたので、せつない気持ちになったことも覚えています。(笑) その会社では1年半ほど働かせたいただき、その後独立しました。
その頃千恵子さんはどうされていたんですか。
千恵子:私は最初に入社した会社に、専門学校を卒業するまで在籍し、学校を卒業してからは、母と同じく横浜の会社に入社しました。
専門学校を卒業されてから、別の仕事をしようとはお考えにならなかったのでしょうか。
千恵子:実は、学生の頃にアパレル系のお店の店長さんととても仲良くなって、その人のところで働けたら楽しいだろうな、と考えていたんです。
ところが、なかなかタイミングが合わずに、結局挑戦することができませんでした。
そこで、アルバイトでずっと納棺のお仕事をしていましたし、すごく楽しかったので、このまま納棺師を続けていこうと決めて、母と同じ横浜の会社に入社したんです。
そこで実績を積ませていただき、母と一緒に独立することになりました。
そうだったんですね。
敦子さんが独立を決めたきっかけは何だったのでしょうか。
敦子:まず「技術を横並びにさせられてしまうこと」が理由の一つです。
会社に在籍していると、「あなたはできるけれど、他の人ができないからやっちゃダメ」と言われてしまうことが多かったんです。
せっかくスキルとしてはできるのに、活用できないもどかしさがありました。
それから、会社はどうしても利益を重視しなければなりません。
例えば、小さな傷を修復したら、1センチにつき1,000円を計上する必要があったり、腹水を抜いた量によって金額が上下することもありました。
お金に余裕がないご遺族の場合、ご遺体に明らかな腹水や傷があってなんとかしてあげたいのに、オプション料金が発生するために事前に確認しなければなりません。
担当からご遺族に説明をしますが「お金がないから結構です」と断られてしまうと、腹水も傷も手付かずになってしまうわけです。
本当ならなんとかできるし、なんとかしてあげたいのに、できないままという精神的苦痛がすごく大きかったですね。
ですから、何をやるかも、料金も、すべて自分で決めたいと思い独立することにしました。
なるほど。
なんとかしてあげたいのにしてあげられない、という精神的苦痛から自由になりたいという思いもあったわけですね。
敦子:そうですね。
今はほとんど均一料金で対応、オプションも無いか低価格でご遺族の希望が叶うように設定させていただいています。
思い描いていた理想のサービスが提供できていると思いますから、独立して本当に良かったです。
独立当初から今まで、会社を大きくしようと考えたことは全くありません。
自分の仕事ができて、そこそこお金が入ってくればいいかな、という考えは変わりませんね。
独立して理想を実現されたのですね。
納棺師として働くうえで、もっとも大切にされていることを教えて下さい。
敦子:とにかくできることは全部やる、の一言に尽きます。
故人様に対して、自分ができると思ったことを全部やることですね。
故人様には、それぞれに理想のお姿があって、そのお姿に近づけるのが納棺師の仕事だと思っています。ただ、自分の手ではうまくできないこともある。そういったジレンマもありますが、できる限りのことをしたいといつも考えています。
それから、ご遺族に対してのサポートも大切にしています。
様々なお声がけをしたり、ご遺族と一緒にお墓参りに行くこともあるんですよ。
納棺が終わったら「はい、これで終わり」ではなく、その後もサポートを継続していきたいと思っています。
独立後の計画はどのようなものだったのでしょうか。
個人事業が何かも全くわかりませんし、葬儀業界への伝手も特にありませんでした。
とりあえず、近くの葬儀社に行って仕事をもらえないかお願いしてみようかな、くらいに考えていたんですが、今考えるとよくやったなと思いますね。
伝手もほとんどない中で、どのようにお仕事を獲得されたのでしょうか。
敦子:ある日近所のスーパーへ買い物に出かけた時、スーパーの向かいに小さな葬儀社さんがあることに気がつきました。
そこで「あ、ここに今声をかけに行ったら、仕事がもらえるかもしれないな」と思って、買い物袋を持ったそのままの足で訪問したんです。
買い物袋を持ったままですか!
敦子:今考えたら恐ろしいことをしたなと思います。(笑) ところが偶然にも、その葬儀社さんも独立されてまだ日が浅く、近隣で納棺師を探していたんです。そこで連絡先を交換して、お仕事が入ったら連絡をいただけることになりました。
また、その葬儀社さんとお仕事をご一緒させていただいた際に、別の葬儀社さんがお手伝いに参加されていました。何度かご一緒した後に、働きぶりを評価していただけたようで、そちらの会社からもお仕事をいただけるようになったんです。
こんな風に、葬儀社間のネットワークで口コミが広がったり、ご紹介をいただいたりしてお仕事をしていました。
その後、不動産営業をしていた私の姉が営業活動を担当してくれることになりました。
それまでは電話営業をしたり、アポイントを取って訪問などはしたことがなかったので、「営業ってこんな風にするんだ」とその時初めて知りました。
当時ご連絡をした葬儀社さんとは、今でもお取引させていただいているんですよ。
手探り状態からのスタートだったんですね。
千恵子:でも、一緒に独立した私は不思議と不安はありませんでした。
親子二人だったからこそできたのかもしれない、と今になってみると思いますが、なぜか母が一緒にいると、どんな現場でも大丈夫だと思えるんです。
そんな安心感が独立した時にもありました。
千恵子さんにとって、敦子さんは心強いパートナーなんですね。
敦子:とにかく手探りでの営業活動でしたが、その分、今でも濃密なお付き合いをさせていただいている会社と出会えたことは幸運でした。
事業を立ち上げてからというもの、とにかく良い人との素晴らしい出会いに恵まれ続けているな、と感じているんです。
特に私の場合、車の免許を持っていなかったため、葬儀社さんの営業車に一緒に乗せてもらって、葬儀場に向かうこともありました。
普通であれば、納棺師さんは免許証が必須の会社も多いですよね。
ご紹介いただいた葬儀社さんへ「敦子さんは運転免許証持っていないから、営業車に一緒に乗せてあげて」と、わざわざ伝えてくださる方も多いんです。
人情に厚い人との出会いに恵まれたおかげで、ここまでやってこられたといつも感謝しています。
きっと敦子さんの感謝の気持ちが周りの方にも伝わっているのだと思います。
ちなみに、葬儀社さんの営業車に一緒に乗ることで、何か良かった点などはありましたか。
敦子: 納棺式の際に、ご遺族がこっそりお話してくださることがたくさんあるんです。
そんな情報を、移動中に担当の葬祭ディレクターさんにフィードバックするなど、情報共有ができるのは強みになるなと思いました。
色々とお話をする事で関係も深まり、お仕事もしやすくなりましたね。
以前インタビューをさせていただいた株式会社アートエンディングの西本様から「ご遺体が輝いて見える納棺師さん」とご紹介いただき、ぜひお話を伺いたい!とインタビューのご機会をいただきました。
親子2代で納棺師を務めておられる3名に、それぞれ納棺師となったきっかけや、その後のキャリアなど、興味深いお話を伺います。
アイシス 代表
齋藤敦子さん
専業主婦を経て納棺師の道へ。現在はアイシスの代表を務めながら、納棺師としての技術の普及にも取り組んでいる。
齋藤敦子さん
専業主婦を経て納棺師の道へ。現在はアイシスの代表を務めながら、納棺師としての技術の普及にも取り組んでいる。
志水千恵子さん
敦子さんの長女。学生時代、母である敦子さんと共に納棺師の道ヘすすみ、同時期に独立。
敦子さんの長女。学生時代、母である敦子さんと共に納棺師の道ヘすすみ、同時期に独立。
齋藤佳代子さん
敦子さんの次女。他業種から納棺師へキャリアチェンジ。現在は敦子さんと共に納棺師として働く。
敦子さんの次女。他業種から納棺師へキャリアチェンジ。現在は敦子さんと共に納棺師として働く。
親子で納棺師同時デビュー!働き始めたきっかけとは?
本日はどうぞよろしくお願い致します。まずは、敦子さんと千恵子さんが納棺のお仕事を始められた経緯から伺えますか。
敦子:4人目を出産後に仕事を探し始めて、たまたま納棺師の求人を目にしたことがきっかけでした。
敦子:まだ子供が小さかったので、人に喜ばれるお仕事というだけでなく、求人情報に記載されていた「空いた時間で働ける」の一文で応募を決めました。
千恵子:私も母と同じタイミングで、一緒に面接に行きました。
当時、私は学生でアルバイトを探していたのですが、ちょうど駅に掲示されていた納棺師の求人広告を見つけて、母に「一緒に面接行ってみない?」と声をかけたんです。
敦子:二人とも、当時は納棺師になりたいと考えていたわけではなく、お仕事の内容などは何も知らずに面接に行きました。
皆さんのように納棺師の映画を観て感銘を受けたとか、家族がお世話になって感動的だったからとか、そういった理由は全くありませんでした。
子供が小さいと制約が多く、たくさん働くこと自体が難しいので、空いている時間を登録しておけばその時間にお仕事が入る、という納棺師の働き方が、当時の私には一番の魅力でした。
そうだったんですね。
千恵子さんはどういった理由で納棺師のアルバイトを選ばれたのでしょうか。
千恵子:私は興味を抱くものが母と似ているんです。当時はまだ学生でしたから、家庭との両立を考える必要もなく、ただ純粋に好奇心から選びました。
ではその時に応募した会社で、納棺師としてのキャリアをお二人同時にスタートされたんですね。
敦子:そうです。
自分の親が納棺師だったり、葬儀社で働いていたから、という理由でこの業界に入ってくる方は多いと思いますが、私と長女(千恵子)のキャリアは全く同じなんです。
当時は、長年の子育ての後で、働くこと自体が久しぶりでしたから、覚えることがたくさんあって大変でした。現場には先輩と二人で向かうのですが、先輩ごとに進め方が違ったり、大切にされていることが違っていたため、それぞれに合わせて作業をするのにかなり苦労した記憶があります。
今ならスマートフォンで録音したりできますが、当時はそういった事も気軽にはできなかったので、とにかくなんでもメモを取っていました。
千恵子:メモを取るのも、現場に出ているとその場で取るのはなかなか難しいんです。
ですから、納棺が終わってから気づいたことをメモして、家に帰ってから反省会。次の仕事に行く前に「今日はこんな感じでやろう」とイメージトレーニングをしていました。
千恵子さんは、納棺師を始められて苦労したことや、特に印象に残っていることはありますか。
千恵子:やはり初めての現場は、強く印象に残っていますね。
実は納棺師として働き始めたころ、自分が覚えている限りでは、人の死に向き合った経験がありませんでした。
そんな状況の中で行った初めての現場では、目の前に安置されているご遺体を見てとてもドキドキしたことを覚えています。ご遺体に触れるのももちろん初めてでしたから「自分はこれからどうなっちゃうんだろう?」と心配になったくらいです。
ただ実際に納棺が始まると、不思議と何の抵抗感もなく対応することができました。
その時に初めて「私は納棺師に向いているんだな」と思いました。
面接の時にも「納棺師には向き不向きがあるけど、それは実際にやってみないと分からない」と言われていたので、その点については安心しました。
私の同期は六人ほどいましたが、ご遺体に近寄れない人や「故人様が夢に出てきて怖いので」といった理由で辞めてしまう人もいました。
敦子:幸い、私たちは二人ともご遺体に抵抗がなかったので、納棺師として働くうえでの第一段階は問題なくクリアできました。
スキルを磨きたい、自由に挑戦したい。納棺師としてのキャリアについて。
ここまで、お二人の納棺師としてのキャリアがどのようにスタートしたのかを伺ってきましたが、その後についても聞かせて下さい。敦子:最初の会社には1年ほど在籍していたのですが、働き始めてしばらくすると、技術的に行き詰ってしまいました。
「こんな時どうしたらいいんだろう?」と疑問に感じた事を先輩に聞いても「分からない」とおっしゃることが増えてきていたので、もっと勉強したいと思い、ご遺体のメイクなどを教えてくれるスクールに通いました。
半年ほど通ったスクールでは、基礎的な知識なども改めて身に着けることができました。
ただ、勉強期間が終わってみると全然物足りなかったんです。そんな時にスクールで出会った人から「横浜で納棺師の求人が出ているよ」と教えてもらいました。
しかも、その会社では警察案件も多く取り扱っているというお話だったので、これはもっと勉強ができるぞ、と思い転職することを決めました。
ご自宅は埼玉県ですよね。横浜だとすごく遠いですね。
敦子:そうなんです。何度か鎌倉まで行ったこともありました。
スーツで江ノ電に乗って、現場に向かったこともありましたね。観光客がいっぱい乗っている江ノ電の中で、一人だけスーツを着ていたので、せつない気持ちになったことも覚えています。(笑) その会社では1年半ほど働かせたいただき、その後独立しました。
その頃千恵子さんはどうされていたんですか。
千恵子:私は最初に入社した会社に、専門学校を卒業するまで在籍し、学校を卒業してからは、母と同じく横浜の会社に入社しました。
専門学校を卒業されてから、別の仕事をしようとはお考えにならなかったのでしょうか。
千恵子:実は、学生の頃にアパレル系のお店の店長さんととても仲良くなって、その人のところで働けたら楽しいだろうな、と考えていたんです。
ところが、なかなかタイミングが合わずに、結局挑戦することができませんでした。
そこで、アルバイトでずっと納棺のお仕事をしていましたし、すごく楽しかったので、このまま納棺師を続けていこうと決めて、母と同じ横浜の会社に入社したんです。
そこで実績を積ませていただき、母と一緒に独立することになりました。
そうだったんですね。
敦子さんが独立を決めたきっかけは何だったのでしょうか。
敦子:まず「技術を横並びにさせられてしまうこと」が理由の一つです。
会社に在籍していると、「あなたはできるけれど、他の人ができないからやっちゃダメ」と言われてしまうことが多かったんです。
せっかくスキルとしてはできるのに、活用できないもどかしさがありました。
それから、会社はどうしても利益を重視しなければなりません。
例えば、小さな傷を修復したら、1センチにつき1,000円を計上する必要があったり、腹水を抜いた量によって金額が上下することもありました。
お金に余裕がないご遺族の場合、ご遺体に明らかな腹水や傷があってなんとかしてあげたいのに、オプション料金が発生するために事前に確認しなければなりません。
担当からご遺族に説明をしますが「お金がないから結構です」と断られてしまうと、腹水も傷も手付かずになってしまうわけです。
本当ならなんとかできるし、なんとかしてあげたいのに、できないままという精神的苦痛がすごく大きかったですね。
ですから、何をやるかも、料金も、すべて自分で決めたいと思い独立することにしました。
なるほど。
なんとかしてあげたいのにしてあげられない、という精神的苦痛から自由になりたいという思いもあったわけですね。
敦子:そうですね。
今はほとんど均一料金で対応、オプションも無いか低価格でご遺族の希望が叶うように設定させていただいています。
思い描いていた理想のサービスが提供できていると思いますから、独立して本当に良かったです。
独立当初から今まで、会社を大きくしようと考えたことは全くありません。
自分の仕事ができて、そこそこお金が入ってくればいいかな、という考えは変わりませんね。
独立して理想を実現されたのですね。
納棺師として働くうえで、もっとも大切にされていることを教えて下さい。
敦子:とにかくできることは全部やる、の一言に尽きます。
故人様に対して、自分ができると思ったことを全部やることですね。
故人様には、それぞれに理想のお姿があって、そのお姿に近づけるのが納棺師の仕事だと思っています。ただ、自分の手ではうまくできないこともある。そういったジレンマもありますが、できる限りのことをしたいといつも考えています。
それから、ご遺族に対してのサポートも大切にしています。
様々なお声がけをしたり、ご遺族と一緒にお墓参りに行くこともあるんですよ。
納棺が終わったら「はい、これで終わり」ではなく、その後もサポートを継続していきたいと思っています。
独立後は手探り状態!アイシスが軌道に乗るまで
独立は大きな決断だったと思います。独立後の計画はどのようなものだったのでしょうか。
手探りからスタートしたアイシスの立ち上げ期について「営業について、何も知らなかったから良かったのかも」と敦子さん。
敦子:実は、あまり深く考えずにスタートしてしまったんです。個人事業が何かも全くわかりませんし、葬儀業界への伝手も特にありませんでした。
とりあえず、近くの葬儀社に行って仕事をもらえないかお願いしてみようかな、くらいに考えていたんですが、今考えるとよくやったなと思いますね。
伝手もほとんどない中で、どのようにお仕事を獲得されたのでしょうか。
敦子:ある日近所のスーパーへ買い物に出かけた時、スーパーの向かいに小さな葬儀社さんがあることに気がつきました。
そこで「あ、ここに今声をかけに行ったら、仕事がもらえるかもしれないな」と思って、買い物袋を持ったそのままの足で訪問したんです。
買い物袋を持ったままですか!
敦子:今考えたら恐ろしいことをしたなと思います。(笑) ところが偶然にも、その葬儀社さんも独立されてまだ日が浅く、近隣で納棺師を探していたんです。そこで連絡先を交換して、お仕事が入ったら連絡をいただけることになりました。
また、その葬儀社さんとお仕事をご一緒させていただいた際に、別の葬儀社さんがお手伝いに参加されていました。何度かご一緒した後に、働きぶりを評価していただけたようで、そちらの会社からもお仕事をいただけるようになったんです。
こんな風に、葬儀社間のネットワークで口コミが広がったり、ご紹介をいただいたりしてお仕事をしていました。
その後、不動産営業をしていた私の姉が営業活動を担当してくれることになりました。
それまでは電話営業をしたり、アポイントを取って訪問などはしたことがなかったので、「営業ってこんな風にするんだ」とその時初めて知りました。
当時ご連絡をした葬儀社さんとは、今でもお取引させていただいているんですよ。
手探り状態からのスタートだったんですね。
千恵子:でも、一緒に独立した私は不思議と不安はありませんでした。
親子二人だったからこそできたのかもしれない、と今になってみると思いますが、なぜか母が一緒にいると、どんな現場でも大丈夫だと思えるんです。
そんな安心感が独立した時にもありました。
千恵子さんにとって、敦子さんは心強いパートナーなんですね。
敦子:とにかく手探りでの営業活動でしたが、その分、今でも濃密なお付き合いをさせていただいている会社と出会えたことは幸運でした。
事業を立ち上げてからというもの、とにかく良い人との素晴らしい出会いに恵まれ続けているな、と感じているんです。
特に私の場合、車の免許を持っていなかったため、葬儀社さんの営業車に一緒に乗せてもらって、葬儀場に向かうこともありました。
普通であれば、納棺師さんは免許証が必須の会社も多いですよね。
ご紹介いただいた葬儀社さんへ「敦子さんは運転免許証持っていないから、営業車に一緒に乗せてあげて」と、わざわざ伝えてくださる方も多いんです。
人情に厚い人との出会いに恵まれたおかげで、ここまでやってこられたといつも感謝しています。
きっと敦子さんの感謝の気持ちが周りの方にも伝わっているのだと思います。
ちなみに、葬儀社さんの営業車に一緒に乗ることで、何か良かった点などはありましたか。
敦子: 納棺式の際に、ご遺族がこっそりお話してくださることがたくさんあるんです。
そんな情報を、移動中に担当の葬祭ディレクターさんにフィードバックするなど、情報共有ができるのは強みになるなと思いました。
色々とお話をする事で関係も深まり、お仕事もしやすくなりましたね。